写真・川上信也/文・嶋田絵里

 岡藩(大分県竹田市)の城下町では、正月二日の朝、まだ日が昇るまえ「オキャガリ、オキャガリ」と威勢のいいかけ声とともに、起き上がり小法師(こぼし)が家や店の軒先に投げ込まれ、仕事初めを迎えていた。この起き上がり小法師は、江戸時代に下級藩士の内職として作られていたというが、太平洋戦争中に作り手は途絶えた。
 戦後まもない昭和27年(1952)、消滅していた竹田の起き上がり小法師(地元では「オキヤガリ」と呼ばれていた)を復活させたのが、ごとう姫だるま工房(大分県竹田市吉田)の初代後藤恒人さん(1900-1972)である。
 当時の新聞記事には、町会議員でもあった直入郡玉来町の後藤恒人さんが「竹田の名物をもとの通りにせねば」と、昭和27年の年末から緒方高校の生徒や近所の人たちと協力して、昭和28年正月に、竹田、玉来、緒方の町々に配った、と紹介されている。
 「昭和29年に竹田町、玉来町はじめ10カ町村が合併して竹田市になりました。新しい竹田市が一つになるために、みんなで力を合わせていこうという思いを込めて、オキヤガリの復活を議会に提案したと聞いています」
 昭和31年、恒人さんによって、オキヤガリは「姫だるま」と名付けられた。当時のことを教えてくれたのは、昭和31年に後藤家に嫁ぎ、義父恒人さんの跡を継いだ後藤明子(めいこ)さんと嫁の久美子さん。
 竹田の起き上がり小法師は、岡藩の下級武士雑賀(さいか)氏の妻綾女がモデルと言われている。ある年末、禄高が少ない雑賀家では歳末の支払もできず年を越せずにいた。諍いのなか、いたたまれず家を出た綾女が、寒空の下、納屋の前に倒れていたところを夫が救い出し、以後、家族の絆を深めて苦境を乗りこえた、という。その言い伝えをもとに綾女を模した女だるまがつくられ、正月二日の夜明けまえに家庭円満、商売繁盛を願って家々に配って回る風習「投げ込み」が岡藩内で行われるようになった。だるまを配る人はホギト(祝人)と呼ばれ、贈られた家は祝儀を渡して、だるまを神棚に飾った。
 現在は、正月の縁起物としてだけではなく、結婚や出産などの祝いごとに贈られることが多いという。イチョウの木など硬い木材でつくられた木型は高さ8〜20・の8種類があり、胡粉と膠(にかわ)でつくる、泥絵の具で彩色される。その姫だるまはいつまでも色あせず竹田の家々を見守っている。
「家族をやさしく見守る姫だるま」竹田市/後藤明子さん・久美子さん

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